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宮川、その深淵なる歴史。

竹本大輔:2012年03月16日

本日、神宮(これが正式名称、いわゆる伊勢神宮)敷地内にあります、神宮司廰(庁)および神宮文庫に行ってきました。宮川の古からの人びととの関わり、宮川と神宮、また宮川と伊勢とのつながりなどを調べるためです。図書館のようなところでじーっと調べものするだけかな?と想像していたのですが、なんとご担当者のみなさまから直接、貴重なお話もお伺いすることができました。みなさま本当にありがとうございました。

 

 

では、宮川の名前の由来と歴史に少しお付き合いをください。出展はすべて神宮司廰および神宮文庫にある、勢州古今名所集、宇治山田市史、伊勢神宮名所図会、神都名勝誌、神宮遷宮紀、神宮要綱、を参照しています。)


「宮川」は本来、「豊受宮祓川(とようけのみやおはらいがわ)」という意味で、「豊宮河」と言い、上を略し「宮川」と言った。江戸のころには京からの勅使やお参りの人たちのお祓い川、としてあった。ちなみに現代においても皇室からの幣帛を神宮に届ける際に「例幣使宮川祓」を行っている。

京の皇族貴族ともつながりがあり、詠まれた詩は多い。

後拾遺和歌集には後鳥羽院が、「朝夕にあおく心を猶てらせ渡も志つかに宮河の月」と詠っている。

また古代まで遡ると、神々の逸話がたくさんある。

その中から一つ。

大台町の「船木大橋」は、倭姫命(やまとのひめみこ)が天照大御神をご鎮座させる神宮の敷地を探していた際、船が大破し彼の「船木(大紀町)」の地で修理したので、この地名が付いた。

宮川の荒々しさは、古の神々の時代から連綿と続いている。


人びとの生活や産業にとって、宮川はどのようなの影響を与えていたのか?

大台町旧宮川村でも最奥の大杉谷地区。

ここ大杉谷地区は、伊勢神宮の式年遷宮の檜用材において、木曽(長野県木曽町周辺)とその産地を二分する檜の名産地であった。ただこれも中世までの話。弘治3年(1557年、ちょうど武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いがあった年)には、遷宮用材を「木曽檜」に一本化。これは大台町宮川の地形が急峻すぎて搬出に困難を極めた、という理由らしい。

急峻な大台町旧宮川村を経て、宮川は、伊勢平野に流れ込む。そこで人々は「暴れ川、宮川」の氾濫を何度も目の当たりにする。伊勢平野(現在の伊勢市)は、そういった歴史の繰り返しだ。

しかしながらそれが伊勢平野を肥沃な農地へ変えていった。この事実も農業生産の観点からは決して見逃せない。


伊勢平野においては、しかしながら治水の歴史であった。平清盛や豊臣秀吉が堤を作ったり、古くは南北朝時代に外宮近くにあった京都の醍醐寺の荘園から、醍醐寺本体に「頼むわ~堤防作ってくれよ~。」という書簡も見つかっているらしい。


最後に、新古今和歌集から。「契ありてけふの宮川のゆふかつら(木綿蔓)永き代まてもかけて頼まん」と詠っているのは、藤原定家。世の平安と民の健康を祈ったのであろう。都びとには常に、神宮とその横を流れる宮川の風景が心にあったのではなかろうか?

雄大な「宮川」の流れと、遷宮に代表される神宮の神事。伊勢の人びと、そして京の都びととのつながり、遠くは江戸の人びととのつながり。こういった都と神々とそして遠く離れた江戸やそのほかの地域をつなぐ、役割があったと言っては大袈裟だろうか?


うーん。大台町そして宮川、深いなぁ。河も歴史も。

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自然をこよなく愛する。コテコテ大阪市阿倍野区出身。現在は名古屋市名東区在住。毎週のように採水地の宮川を訪れては土いじりだの虫取りだの川遊びだのに興じています。

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